【活動報告】当事者主導型研究についての有識者からの意見聴取(曹洞宗人権推進本部)

精神障害当事者会ポルケでは今年度より「精神障害×災害」をテーマに「当事者主導型研究」と題して、国立精神・神経医療研究センター(NCNP)と協働して、被災経験のある精神障害のある人や支援者らのヒアリング調査を行ってまいりました。このプロジェクトは、テーマの追求とともに研究の枠組みとして「当事者主導であること」の意味をプロセスを通じて、記述的に明らかにしていくことを目的としています。

当事者参画の必要性がいわれて久しい状況ですが、あらゆる分野でまだまだ不十分な状況があります。プロジェクトを通じて、研究分野はもとより様々な分野での当事者参画を加速するために取り組んでいます。取り組みがほかの当事者団体や関係者の皆様の参考になるよう、タイミングをみて資料としてまとめていく予定です。

さて、この度日頃より人権活動を通じてご縁をいただく曹洞宗人権推進本部の本多清寛氏に意見聴取の機会をいただきました。「当事者」とはなにか、「主体」とはなにか、等々について仏教哲学のご見地からコメントを頂戴しました。後日寄稿をいただきましたので、ご紹介をさせていただきます。


 

当事者主導型研究について感じたこと

 

曹洞宗 本多清寛

初めまして。私は曹洞宗という禅宗の僧侶で本多清寛(しょうかん)と申します。今回、当事者主導型研究についてお話しを伺い、正直なところ戸惑っておりました。なぜかと申しますと、私が何の専門家でもないからです。曹洞宗という宗教法人の中で人権擁護推進本部という部署に在籍しておりますので、業務の中で人権とは何かを考えざるを得ない状況は多くあります。当然ではありますが、すぐに答えが出るわけもなく、ずっと悶々とするばかりです。不当に差別される状況、平等に享受できない基本的人権、蔑ろにされる尊厳。そのような事実を知った日であっても、家に帰れば子どもの笑顔に幸せを感じている私がいます。誰かの悲劇として、自分の日常から切り離してしまおうとする私という人間へ虚無感を覚えることもありました。

そして、私は僧侶です。僧侶なのに飲み会に参加し、僧侶なのに結婚し、僧侶なのに社会にある苦しみを直視できないのです。そんな私に何ができるというのでしょうか。

今回、研究の方法をお聞きしてとても素晴らしいものだと感じました。社会障壁に直面する障害のある方が主導して、同様の障壁に当たるかもしれない未来の人びとのために、その壁を突破するための方法を模索しておられるように見えたからです。お寺という伝統を担わせていただいている和尚の立場からすると、これまで続いてきた人間の営みを感じるものでした。

お釈迦様の教えは、世の中で起きた事柄を観察し、その結果に至る諸条件や原因を詳細に分析することで、世の中が遷り変わり続けても苦しむことが無くなるというものです。文字にすれば二行で済んでしまう教えですが、2500年以上、数多の僧侶たちが世間の観察を続けています。

ロシアの文豪トルストイが書いた小説『アンナ・カレーニナ』の冒頭に「すべての幸福な家庭は互いに似通っているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸の趣を異にしているものである」(『ロシアソビエト文学全集17アンナ・カレーニナ(上)』平凡社、1964年)という言葉があります。言われてみると、幸せな家庭のイメージは、なんとなく皆さま同じものであるような気がします。逆に不幸な家庭をイメージすると、その原因となるものは多種多様で、一概にはいえないでしょう。さらにいえば、たった一つの苦しいことがあるだけで人間は不幸になってしまいます。

数多の僧侶がやってきた観察は、人間を不幸にする一つひとつの苦しみが、一体何に根ざしているのか、そしてそれは解決できるのかということを考えてきた営みともいえます。僧侶というと、世間から離れ、隠遁生活を送るとうイメージがあるかもしれませんが、奈良時代に各地を駆け回り大仏建立の寄付を集めたのも僧侶です。現代でも、寄附を集めたり社会事業などをやったりすると、僧侶は山奥で修行すべきなのでは?というような批判を受けることがあります。けれど、どちらも苦しみの解決に尽力する僧侶の姿なのです。

同じように、当事者主導型研究への批判に「障害者は障害があるから研究ができない」とか「障害は多種多様なのだから本来的には当事者といえない」といったようなものがあるかもしれません。前者は論外としても、厳密に当事者といえるのかどうかと聞かれると答えに窮することもあると思います。僧侶としての私の立場でいうと「飲み会や結婚をする社会にある苦しみを直視できない人間は僧侶なのか?」という批判です。けれど、この研究に参加しておられる方は、障害に不利益を被る個人であり、苦しみの解決に挑む人間として間違いなく当事者であると思います。だからこそ、どのような障害に直面しているのか、どんな苦しみを解決しようとしているのかを明確にしつつ、この研究が公開されていけば、これから先に同じような障害に直面する人びとを救う灯台のような研究になると思います。

私も、僧侶というものの当事者としてご協力できたら、次の僧侶のためになると思っておりますので、これからもよろしくお願いいたします。

最後に、このような機会をいただき誠にありがとうございました。研究の発展を心より祈念申し上げます。合掌。

 

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